2012年03月11日

3.11を過ごす

今日は東日本大震災から一周年です。
3.11という日付は特別な日付となりました。

昨日大事な用事は済ませたので、
今日はゆっくり家族と家で過ごしていました。

何か用事があったとしても、あの時間を気にして
どうも心が落ち着かなくて、そんな気持ちになれません。

朝9時からは、町内全体で防災訓練がありました。
家族全員で参加しようと考えてましたが、
寒かったこともあり、私と子供たちの三人で参加しました。

防災訓練といっても、地区の集合場所へ出向いて、
班長が班の参加者を数えて確認するという程度。
最後に一分黙祷して、全部で30分程で終わりました。

自宅に戻って、買い出しにでかけようと思いつつ、
震災特番ばかり流れるテレビを見ながらうたた寝。

ここ一週間ほど、3.11が近づくにつれて増えてきた
震災関連のテレビ番組は、正直なところ見る気になれなかった。

あの頃の気持ちや怖さを思い出すし、
自分の知らなかった事実を見せられることで、余計に辛くなるから。
なんというか、より共鳴してしまう自分がわかるから。

でも今日はどこもそのような番組なので、
家族が見ている番組を時間があれば目にするという感じでした。

遅めのお昼を食べて、黙祷の時間まで細かい片づけをして待つ。

子供たちはビデオを見ていたので、14時40分にはやめさせて
NHKにチャンネルをあわせる。

ちょうど国立劇場での追悼式の中継が始まりました。

誰も何も言わないのだけど、夫も子供たちも、
正座してその時を迎える準備をしている。
私もあわてて正座する。

14時46分。黙祷。

震災や津波の被害で命を失ってしまった方たちの
ご冥福をただただ祈り、魂が安らかに天に昇るように
祈っていました。短い一分でした。

そして天皇陛下のお言葉を聴きました。
優しいお声で、国民に寄り添った温かい言葉でした。
ご自分の体調も万全ではないのに、ありがたいことです。

野田首相の話が全く現実味がなく空々しく感じられたことよ。
3つの決意も中途半端に聴いていて、長男にあきれられた(^_^;
結局3つが何だったか回答できなかったので。

あとは買い出しに出かけるという日常に戻りました。

備蓄品を見直す、買い足すということをしようと思って
できていません。4月いっぱいを目処に少しずつやろう。

そんなこんなで、次男が就寝してから卒業式の服を
試着させるはずだったのを思い出したり、
(さっきスーツの在処は確認したがシャツが見つからず)

金曜日に届いたという中学校の制服を
さっき次男の机の足下付近に発見してハンガーにかけたり、
(なぜ誰も届いたことを知らせない?!)

中学校で使うサブバッグやベルト、靴などを買わないと
と急に焦ったり、

お彼岸の準備もしなくちゃいけないな・・・など

一挙に我が家の春イベントに向けてのバタバタを
意識し出した夜でした。

そう、時間は止まらないんだよね。
「今」しかない。今の積み重ねを地道にするしかない。

その積み重ねで迎える来年の3.11は
どんな日になるだろうね。

どんな日にしていこうか。
 
posted by しゃーしゃん at 23:51| 宮城 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月10日

一年の節目に。

本日3月10日は、あの大震災からちょうど一年。

去年の今頃は、出張先の秋田から帰り、
次の日の長男中学卒業式の準備をしていたはず。
まさか、そんな日になろうだなんて微塵も思ってなかったよ。

今日、町内の中学校は卒業式でした。
地区の中学校体育館も被災でひどかったけど、
ようやく修理が済んで、無事に卒業式できたようです。

でもね。一年経ったなんて正直思いたくないです。
きっと、自分がこの一年という年月に値することができてないから。
そういう自分が許せないんだろうな。
まだ一年後のその日を迎えていい自分になってないというか。

でも、じゃあ、どうすれば自分にOK出せるのかな。
どんなことして、どんな気持ちで過ごしてればOKだったのかな。

あの日、大震災という1つの出来事が起きたけど、
一人ひとりの数だけ、大震災があったと思うし、
だからこそ、一人ひとりにとってのOKを出せるレベルは違うと思う。

それは自分でこれから先も問い続けて、生き続けて、
もがき続けて、いつの日か、自分だけが出せるOKサインを
見つけるしかないんだと思う。

誰かに背中押してもらうことや助けてもらうことも
必要とは思うけど、自分自身に起こったことは、
たとえそれが大震災という広く共有できる出来事だとしても、
自分が感じて体験したことは、やっぱり自分だけのものなのだ。

だから、他者がどうであろうと、自分の深いところに
問い続けて、咀嚼して、手探りながらも小さなことから
選択し続けて、行動して、思考して、振り返って、
また自分の深いところに問うてみて、を繰り返すしか
ないんだろうなと思います。

まあ、それにしても、あっという間でしたね。
思いの外、仕事も家のこともプライベートも忙しくて。 
半年間は平常を取り戻すことに無我夢中で過ぎたかな。
もう全く同じ平常は戻らないけどね。

大震災と父のことが重なる一年だったから、
余計にあわただしかった。

まだまだ、知らなければならない現実も多く、
インプットが必要と思う反面、
やはりどうしても、時間を捻り出して、
自分の大震災での体験を、当時の気持ちを、
もっとたくさんアウトプットしなければいけない。
もちろん、それは常に今の気持ちも入ると思うけど。

節目に何か書くのも、実はなんだか気が進まなかったけど
「今」の想いはやっぱり残さなくてはと思い、記事にしました。

午後に役所へ確定申告をしに行ったのですが、
明日の3.11東日本大震災追悼式の会場が設置済みでした。
テレビがあったので全国中継を見ながらなのでしょう。

献花台と記帳所があったので、近所の花屋で小さな花束を買い、
献花した後、記帳してきました。

私が今すぐできること。これくらいだけどいいんだ。

明日午前中は防災訓練に家族で参加し、
午後は14時46分に黙祷する予定です。
 
posted by しゃーしゃん at 23:33| 宮城 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月09日

仮設住宅を訪ねて

元旦に更新頻度を上げたいと書きつつも、もう9日経過です(汗)

仕事始めの週が想定外に忙しく、そのまま三連休に突入したので
家の用事をこなしたり、疲れを取るために珍しくだらだら過ごしたりで、
パソコンに向かうまとまった時間も取れずでした。

ようやく今日の午後、自分タイムを作れそうなので、
メールとかブログとかやっつけようと思っていたら、
父方の親戚廻りをすることになりました。ワスレテタ〜

お互い喪中なのでお年始はしなくてもいいんですけど、
あまり考えずにお年始の品をだいぶ前に準備していたので、
せっかくだし、顔出しに行きました。

親戚は東松島市と石巻市にいます。
石巻市の叔母さん家族がお盆過ぎにようやく仮設住宅に入れたのですが、
今回初めてその場所を訪ねてみることに。

前にちょこっと書いたけど、叔母家族が住んでた貸家は津波にやられて、
叔母さんといとこも津波危機一髪のところを電柱によじ登り、
波も引かず、真っ暗で寒い中を一晩中二人で耐え忍んで生き延びたのです。
次の日の朝、救出シーンがテレビで映ったらしいです。
叔父さんともう一人の息子と会えたのが二日後。
叔父さんはもう二人は死んだものと思ってたから、本当に驚き、そして安堵したことでしょう。

私達が叔母さん達が無事だったと聞いたのは、固定電話がようやく繋がってからなので
大震災から一週間後。詳しい体験談を聞いたのは4月以降だったと思う。

いつまで経っても仮設住宅の抽選に当たらず、まさかのお盆過ぎまで待たされた。
でもね、住宅が満杯って訳ではなく、結構空きがあるんだそうですよ。
やっぱり仮設住宅は嫌な人もいて、貸家かアパートをなんとか見つけて住む方も。

東松島の叔母さんに道案内してもらいながら、仮設住宅を目指す。
石巻赤十字病院からほどなく行ったところでした。石巻専修大学の近く?

同じようなプレハブがたくさん連続で立ち並ぶので、住所持参しただけでは
絶対にたどり着けないと思った。後1、2回は来ないと覚えられないかも。

駐車場は一家庭に1台分。なので邪魔にならない適当な場所に駐車。

サッシの枠を組み立てている作業員の方がいた。
休日でも関係なく作業してるんですね。ありがとうございます。

玄関部分は横に開けるタイプの簡単なサッシでした。なのですぐに結露するとか。
そのサッシドアを囲むように、屋根付の風除けが透明なパネル?で作られており、
足下部分は木造で階段上になっていました。郵便受けもついてました。
その風除けの入り口にサッシを入れて、完全に囲むようにする作業を今やっているそうです。

お邪魔してわかったのですが、玄関と思って入ったところはただの入り口でした。
つまり、靴を脱いで置く場所がない、たたきが全くないんです。
サッシを開けるとすぐに台所の床なので、入り口付近にシートを敷いて、
そこに靴を置いているといった感じでした。もちろん靴箱なんて狭くて置けない。
外の風除けのところに置く手もあるけど、風向きによっては雨や雪に濡れるし、
誰かが持っていかないとも限らないですからね・・・。

台所から居間へ入る感じ。居間の隣にもう一部屋あって、寝室に使ってる様子。
トイレとお風呂は別々で独立してました。

部屋は6畳間位なのかなあ。横長のこたつが置かれ、座ると一杯になる感じでした。
う〜ん、いとこもほぼ大人なので、家族4人でこれは狭いだろうなって思った。
でもまずは住むところがあるだけ良いと考えるしかない。

エアコン1台、液晶テレビ、洗濯機、電子レンジ、ガステーブル、炊飯ジャー、
冷蔵庫、小さなテーブルなどが備え付けだそうです。
とはいえ、他は何もないから色々揃えたとのこと。
うちで未使用だった食器をあげたのですが、大活躍していて良かった。

エアコンがもう1台支給されるそうで良かった。
夏はエアコンない部屋は扇風機で乗り切ったとか。

複数のメーカーが仮設住宅を作っているそうで、メーカーによりまちまちらしい。
叔母さんところは基本鉄板で組み立てなので、夏は暑く冬は寒そう。
木造で作ったメーカーもあるそうです。
最近?壁にようやく断熱材が入ったから、だいぶ暖かくなったそうです。
後から色々付け足しながらなんだなあ。

普通は仮設は2年までだそうですが、今回は5年いられるとか。
今から家を建てるのはもう難しいので、賃貸で暮らすことになるみたい。

ここを出る時は、風呂のフタすら持っていくことは禁じられてるって。
つまり、やっぱり家電など一から揃える必要があるってことだよね。
それもどうなんだろう。そのまま利用してもらう訳にいかないのかな。

下の息子さんは4月から社会人になり、東京で声優の卵として頑張るって。
学校の先生からもあまりない声だと言われてるそうで、期待が高まるね。
しっかりしたプロダクションに採用してもらったようなので、頑張ってほしい。

東京で一人暮らしをするために、少しずつ準備していたものが全て津波に
流されていったから、また一から揃えて大変みたい。
それでも、何万かかろうと、やっぱり親だから揃えるんだよね〜。

スーツを買って、胸ポケットに入れるハンカチーフを買ったら2900円もしたって!
「俺なんて1000円のズボン履いてるのに」と叔父さん。
わかるわかる、そんなもんだよね。

とりあえず、ここでの生活が軌道に乗ったようで安心しました。
近所にはちょっとした店もあり、野菜なども売りに来るので
買い物に不便ということはないみたい。

微力ながら何かできることがあれば、協力したいけど、
どこまで何ができるのか。

まずは、春にまた、いとこの門出を祝うために来ようと思います。

posted by しゃーしゃん at 23:59| 宮城 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月20日

「大丈夫」の尺度

月に一度、ある会議に出るため東京へ行く。

主催側に同年代と思われる女性がいるのだが、
ひょんなことからプライベートの話もするようになったのが先月。

仮にAさんとしましょう。Aさんは都内の人だと思う。
Aさんの実家は福島県で、その中でもホットスポットと呼ばれる地域。
お母様が住んでいたのですが、拒食症により9月に逝去されたそうです。

ホットスポットとなったことで、街からは人がいなくなり、お店も開いてなく、
開いてるスーパーでも福島産のものしか置いてない。
なので、自然と拒食症となり、ついには命まで落としてしまったようです。

葬儀の準備のために実家へ戻ったAさんは、
隣の家でも危篤、数件先でも亡くなったばかりという現状を目の当たりにし、
愕然としたそうです。これは偶然じゃない。回りまわって放射能のせい。
Aさん、そしてお母様はどれだけ無念だったことでしょう。

そうなる前に、別の場所へ移ればよかったのに、なんてこと簡単にいえません。
避難区域でない場所から、生活の場を自ら移すことは本当に大変なこと。

会議が始まる前のちょっとした時間。
「しゃーしゃんさんは地震大丈夫でした?」
「ええ、大丈夫でしたよ。うちは津波もなかったですし」

そう答えた時、一瞬Aさんが驚いたような顔をし、
「うちの実家は福島なんですけど、被災して・・・」と上述の話をしてくれたのです。

会議も終わり、帰りの新幹線でふと考えた。
Aさんが考えてる「大丈夫」と私が口にした「大丈夫」ってきっと違う。
だからAさんはびっくりしたのかな。

電気は2日ほどつかず、固定電話は一週間ほど繋がらず、
水道は半月も使えず、ガスも一ヶ月使えず、学校も一ヶ月休み、
電車も一ヶ月使えず、食料品やガソリンを確保するのに一苦労。
家屋は一部損壊、外塀や勝手口外の階段などには大きく亀裂が入った。

普通に考えたら、全然大丈夫じゃないでしょう?!
これも立派な「被災」だよね。

でもね、津波も来なかったし、ここにいられないほどの放射能の影響もなかったし。
当時もそりゃあかなり大変だったけど、それでもやっぱりなんとかなったから
「大丈夫」って思うわけ。喉元過ぎれば、なのかもしれないが。

ふうぅ・・・。言葉って難しいね。
たった一言の背景には、人それぞれの物語や思いがある。



そして更に一ヶ月後の先日。また東京へ行き、Aさんと会えた。

基本的に会議前も後もあまり雑談をしない私。する相手があまりいないのもあるけど。
会議の後、いつものように帰り支度をして廊下に出た私を、Aさんが追ってきた。

「いつもお話したいって思ってたんですけど、いつも忙しそうで・・・」

なんかその一言が意外で嬉しかった!
会議の席でしか顔をあわせないのに、親近感感じてくれてたんだなあ。

そこで長い立ち話になり、福島のこと、原発のこと、家族のこと、などなど
堰を切ったように話は続いた。

「じゃあまた来月、よろしくお願いします!」

なんだかまた1つ、良い出逢いが生まれた気がする。

いつかまた、あの時の「大丈夫」の意味をゆっくり語れたら、と思う。
 
posted by しゃーしゃん at 23:02| 宮城 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月05日

3/11大震災、その時(2)

3/11大震災、その時(1)の続きです。
http://shashan.seesaa.net/article/192808164.html

この記事書いてから2ヶ月も経つんだなあ。
そして3.11からもうすぐ3ヶ月。
巷ではもうすぐ再度巨大地震が起こる等の予知話もちらほら。
どこか広い海の真ん中で起きてほしい。あ、津波来たら困るか。
でも、本当にもう東北は勘弁してくださいよ。

被災者置いてけぼりの政界混乱ぶりについては、ここでは言及しない。
私は私なりに、この地で家族とともに一日一日丁寧に生きていくだけ。
放射能も怖いけど、一応毎日測定値チェックしてるし、
必要以上に不安がっても仕方ないし。

あとはどこまで自衛するかなんだよね。
今の自分は自衛しなさすぎか?とも思っているけど。
マスクくらいしたほうがいいかしら。
洗濯物を外に干さないとか、水道水を飲まないとか、色々あるけど、
家族(特に母)はそこまでできるだろうか。いやできなさそう。という思いもある。
最近は米とぎ汁乳酸菌というのが気になってます。やってみようかな。



ではやっと続きの本題。

揺れが続き過ぎて、母に怪我でもされたら大変なので、
なぜか倒れなかった位牌を居間に持ってきて、
母にそれを守るよう言いつけて、じっとさせた。

揺れを警戒しながら、少しずつ一人で一階を片付ける。
二階はまだ立ち入り禁止で、夫と長男が割れたコップなど片付けてる様子。

居間はポットと加湿器が倒れて、じゅうたんが濡れてしまった。
立て直して、タオルや雑巾を投げ込み、とりあえず水分吸収で放置。
液晶テレビは倒れなかった。

次に、歩くところを確保!ということで玄関周りの復旧。
バラバラになったタヌキの置物を拾い、大きな花瓶からあふれた水をふき取る。
棚の上からこんな大きな花瓶が落ちるとはねえ・・・。でもうまく着地してた。
シーサーの置物も下に落ちて耳や尻尾が欠けた。だけどほぼセーフでよかった。
靴も、花瓶の隣にあった粘土細工の人形も、水に濡れたので拭いた。
あとはモップで玄関土間の水も拭いて、やっとこ終わり。

とりあえず玄関周りは歩けるようになったと思った頃、
夫が次男を小学校に迎えに行ってくれた。

いつもなら一斉連絡メールが来るけど、停電だしそれを待つまでもない。
そもそも学校側にメール発信する余裕なんてないのでは?
・・・というか圏外になったので受信できない。
受信できたのは5日ほど後だったかな。
ちなみに小学校からはなくて中学校からはありました。

あとでわかったことだけど、
夫に15:50に次男を引き渡したことが、学校の緊急避難カードに
赤文字で記載されていた。先生、ありがとう。

無事に帰って来た次男は、思ったより冷静で怖がった様子はない。
きちんと上着を羽織っていたが、体操着のまま、上靴のままだった。ランドセルはなし。

卒業式で6年生を送るための練習を体育館でしていたところ、被災。
天井からパラパラと何か落ちてきたという。
その後、校庭へ避難して、誰かが上着を持ってきてくれたらしい。
(校舎へは戻らなかったそうなので、たぶん先生。)

女の子たちはみんな泣いていたって。そりゃ怖かっただろう。
これも後に聞いたことだけど、同じ学年の女の子のご両親は医療従事者なので、
どちらも早く帰れるわけもなく、お母さんのほうが20時にやっと迎えにいけたとか。
その子は先生と一緒に校庭にある学童保育所で、静かにトランプをしながら待ってました。
先生も、ご両親の職業を知っているので「今日はお泊りになるかもしれないね」と
言っていたそうです。付き添ってた先生も、静かに待っていた女の子もすごい。
先生にも家族があるだろうに、その子だって心細かっただろうに。

話を戻して。
何はともあれ、やっとこれで家族全員が揃った。

本当に私も夫も休暇を取っていてよかった。
これが普段の日だったら、母一人でどうなっていたか。
私や夫は、家にも、下手したらお互いにも連絡が取れず、
不安な気持ちのまま、徒歩で何時間もかけて帰宅していただろう。
長男も次男も学校でずっと不安な気持ちで待っていただろう。

不幸中の幸いで、本当にこの日でよかったなって思った。

続く。
 
posted by しゃーしゃん at 23:13| 宮城 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月23日

Kさんの死に思う

今日もまた、悲しいお別れをしてきました。

同じ町内会で役員をされていて、父とも親交が深かった方です。
仮にKさんとします。

Kさんは肺がんを患い、父とはよくガン談義をしていたようです。
昨年度は父の代わりに私が班長の仕事をするようになり、
Kさんとは幾度も会話を交わしました。

Kさんはたまに抗がん剤の治療のため、一週間ほど入院することを
繰り返していたようです。
でも、いつも元気にしゃっきりと町内会の仕事をこなされていました。

父が死んだ時も、町内会長と一緒にいらしてくださって、
弔辞の原稿を作ってくださいました。

3.11大震災の後も、もちろん町内会役員による防災対策本部の一員として
公民館に詰めており、地域の皆さんのために力を尽くしておりました。
私も班長として最新の情報を得るために、ほぼ毎日公民館へ通いましたが、
いつも玄関前にいらして、やってくる皆さんとやり取りをされていました。

「Kさんも体調は大丈夫ですか?」と聞いたら、
「地震の前に抗がん剤治療で入院しててね」とおっしゃったので、
「無理なさらないでくださいね」と声をかけるのが精一杯でした。
あの時は、班長としての仕事と、家を守ることで私も一杯一杯でしたから。
それに、未曾有の事態でしたから、Kさんも役員としての役割を個人の事情で
断るわけにもいかなかったのでしょう。

でも、がんの治療をされている方が、毎日ずっと外で立ってる状態でいて、
体力的に大丈夫なんだろうかとちらっと頭をよぎったことは確かです。
そうでなくても、あの頃は精神的肉体的にも体調を崩しやすい状況でしたから。

今月の町内会総会では、Kさんの名前が役員欄から消えていました。
前日に入院したそうで、他の役員はみな継続となったのに対し、
Kさんのポストには別の方が入ることになりました。

入院が多いから辞退したのかなあって思っていたところ、
今日葬儀社が出す看板を見つけて、「まさか?!」の展開。

本当に悲しくて、悔しくて。
本日通夜だったので父の代わりに参列してきました。
父とあまり変わらない年齢だったのだなあ。

震災関連死。最近よく聞くキーワードです。
定義が明瞭ではないために、その認定も難しいようです。

で、私はKさんも震災関連死なんじゃないかと思うのです。
もちろん私は医者じゃないし、がんが第一の原因だろうということは想像に難くありません。

でも、本来ゆっくり自宅で身体を休めなければならない時期に、
大震災によって自分の身体に鞭打ち、地域のために力を尽くした。
普通の人達でも半月程で疲れがピークに達する中、役員として動き回り、
4.7の最大余震後にもまた地域の中心となって動いていた。

震災がなければ、もっと養生できて、適切な治療も続けられて、
こんなに早くに亡くなることもなかっただろうに。

少しでも身近でその様子を見ていただけに、震災関連死に値すると
私は強く思ってしまうわけです。

先日亡くなった東松島市の祖母もしかり。
友人夫妻のお父様もしかり。(震災前から石巻の病院に入院しており、震災後に亡くなりました)

こうやって埋もれていく、震災関連死に近い例ってたくさんあると思います。
元々病気だからといって割り切れないものがあります。

このところ、訃報ばかりが入ってきて、やりきれない思いになりがちです。
でも、生き残った私達がしっかりと故人を見送って、
いつ終わるかわからない復旧・復興への道を歩んでいかねばならないのだと痛感します。

合掌。

 
posted by しゃーしゃん at 23:55| 宮城 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月15日

電気復旧、再度の断水、そして桜の季節へ

前記事の続きです。

4/9(土)朝から電気がついたので、暖房や料理、風呂、洗濯もOK!
この週末は色々と溜まっていた用事をこなしました。

9時半に予約していた次男の歯医者から電話。
停電してたからすっかり忘れてた!
歯医者も復旧したので診てもらう。
本当は3月だったけど震災で再予約したんだよね。

戻り次第、母を美容院へ送迎。
美容院へ行く道路は陥没がひどくてびっくり。
絶対無理と思った場所があり、途中から母には歩いてもらった。
12月ぶりで母もすっきりできた様子。良かった。

帰宅後、引き続き二階の片付け。子ども部屋を救出です。
本棚(本来は靴箱として売ってた)に大量の文庫本と漫画を戻す。
ほとんどが私が小さい頃からの所蔵品。
手伝っている次男は、ついついドラえもんを読み始めて手が止まる。
ドラえもんとガラスの仮面が一番多いな〜。星新一も。
そして、3/11の時と同じく大きくスライドした電子ピアノも元に戻す。
カラーボックスから出たもろもろは、後で。
3/11で飛び出したものは段ボールに入れたままで手付かずだし。

新学期前なので、子供達を床屋へ連れて行く。
床屋さんのビルもかなりダメージあり。でも隣の仮店舗で営業していた。
子供達も冬休み以来のすっきり!良かったね。

遅いお昼を食べて、長男と一緒に仙台へ。
金港堂で高校の教科書、英語辞書、古語辞典、漢和辞典をを購入。
推薦辞書が複数あったので、「ひきやすそう、楽しそう」という私の独断で決めちゃった。
最終的には長男が決定したけどね。古語辞典ってこんなに親切だったっけ?って思った。

通学用のカバンも購入。久しぶりにアーケードを歩く。
仙台の街も、だいぶにぎやかになってきている。開いてる店舗も増えてきた。
まだ18〜19時で閉まっちゃうけどね。たい焼き屋に行列ができてた。

長男が友達と日曜に仙台で遊ぶ計画を立てていたのだが、JRどうかな?
ってことで仙台駅で確認すると、4月下旬まで運休・・・。
長男も私もショックでかい。復旧して一週間位しか経ってないのに〜。また会社に行く手段が・・・。

実は長男とその仲間達は、卒業式の2日後に仙台で遊ぶ計画を立てていたのだ。
でも3/11が卒業式の日だったので、もちろん計画は延期。
そして今回、4/7の地震でまたもや2日後の計画が頓挫しそうになった。

あまりに落ち込む長男を見かねて、高校も始まったらなかなか会えないだろうから、
「明日仙台まで車で送迎してあげるよ。帰りも迎えに行くよ」と提案。
長男は一気に元気になり、「これで友達に顔向けできる」と言った。
「顔向け」の使い方がちょっと違う気がするけど(^。^;)
自分のせいでこうなったんじゃないのにね。
友達に連絡したところ、悪いからという気遣いで、帰りは別の親が迎えに行ってくれることになった。

土曜はこんな感じ。

日曜は9時半に長男友達を拾って、仙台へ。
久しぶりに友達に会えた長男はテンションMAX!本当に楽しみにしてたんだなあ。
母として協力してあげてよかったわ〜♪ 
大震災以降ずっと家にいたし、不安な思いばっかりしてきたものね。
やっぱり楽しみを見つけて気分転換しないとね!

帰宅したら、母と次男を連れて東松島市にある父の実家へ。
祖母の初七日に行けなかったので、お線香をつけに行った。二七日だからいいでしょう。

お昼は大震災以来の外食。「大震災以来」がやたら多い(苦笑)。
南部屋敷に入ったけど、混んでましたね。メニューは全部OKでした。
でも注文してから30分位かかったけどね・・・。
でも、人の作った料理はとっても美味しかったです!

イオンのコージーコーナーでお土産を買う。ケーキはなくてシュークリームだけだったのでそれを。
その後父の実家へ行き、お線香をつけて、お茶をいただいて帰る。
実はまた断水してたらしく、知らずにお茶をたくさん飲んでしまった・・・。ごめんなさい。

帰りにはまたイオンに寄って食料を買出し。は〜、一日運転して疲れた。

この週末は久しぶりに震災と関係ないことをたくさんできて、なんか嬉しかったよ。

そして今週。また夫の車通勤に便乗する毎日。
臨時バスで行ってもいいのだけど、10時頃にならないと仙台駅に着かないし、
夫はそこから更に南へ行く必要があるので、それじゃあ仕事にならない。
というわけで、仕方なく車で通勤しております。ガソリン大切に使ってます。

で。4/12(火)から町全域で緊急断水ですよ。Oh!No!
4/7の地震ででかい送水管に漏水発生したらしく、現在も絶賛断水継続中です。
4/19〜20には復旧する予定です。
おかげさまで給水車生活も継続中。昼間は子供達が給水してくれるので助かります。
ブログで知り合った仲間から届いた消毒液や水のいらないシャンプーが役に立っています!!
あと、友人からもらった無洗米も助かりました。本当に皆さん、ありがとう。



そんなこんなで4月も中旬ですね。
仙台ではここ2〜3日で一気に温かくなったせいか、桜が満開に近いです。
週末は雨が降る予報ですが、散らないでほしいなあ。

ゆっくりと花見をしたいです。他の地域の方達もぜひ花見をしてくださいね!
自粛する必要はまったくありません。
あの、不思議とワクワクする高揚感。その雰囲気を、元気を伝えてくれれば嬉しいです。

桜も、私達と共にあの大震災を経験した。
放射能が降り注ごうとも、余震が来ようとも、じっと蕾を膨らませ、命を繋いできた。
そして今、素晴らしい花を咲かせている。

私も、心揺らぐことなく、今自分ができること、すべきことを丁寧に行い、
一日一日を家族と共に、大切に生きていくことが、今必要なことなんだなって思った。

小さくても、少しでも、毎日積み重ねよう。
きっとまた、笑顔が溢れる町になるよ。
「あの時は大変だったよね〜」って花見をしながら語り合える日が来るよ。

よし、頑張ろう。

 
posted by しゃーしゃん at 22:13| 宮城 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月14日

最大余震の翌日

110408_1229~001.jpg
前記事の続きです。写真は我が家の遅咲きの梅。

地震後すぐにラジオをつけて情報収集。広い範囲で停電か。
電池ももったいないし、夜中だからすぐ寝ればいいのに、
なんだか安心するからつい長く聞いてしまう。

そうそう、1時頃だったか、会社から安否確認メールが携帯に届いたので、
早速返信しておきました。

今回(4/7ね)、自宅付近ではドコモはOKで、Willcomはやっぱり圏外になりました。
私は3/11直前から、仕事のために臨時で会社携帯(ドコモ)を借用していて、
4/11に返却する予定でした。なので今回もドコモが生命線になってくれました。
停電すると光フレッツは繋がらないからね。固定電話弱い。

本来、Willcomは一番災害時に強いはずなのだけど、
今回みたいにあまりにも基地局の被災度合いが大きすぎる場合はやはり仕方ないです。
あと、停電するとダメなのかな? 基地局の電源供給がどうなってるかわからないけど。

でもWillcom、やめませんよ!(笑)
4/11の福島震度6弱の時は、仙台中心部の会社からWillcomですぐ家に電話して、
何の支障もなく繋がりましたから。ドコモ等他社携帯はすぐには繋がらなかったようです。
基地局さえ安定していれば、やっぱりWillcomは強い!

とはいえ、災害対策としてドコモも2台目として持ったほうがいいかもって
ちょびっと(1%位)考え始めてます。複数ラインを持つ大切さを実感したから。

そして、最大余震から一夜明けた4/8(金)。

停電なので寒い朝。また3/11直後に逆戻りです。
でも水だけは出ていました。

停電、JR全線ストップ、家の中はごたごた。
もうこれだけで会社休むことに決定。
さっさと会社携帯から上司に休暇の連絡メールを送信。
夫は休めないので車で通勤。

後日聞いたのですが、地下鉄は通常運転で、会社も停電ではないため
結構みんな普通に出社していたそうです。ダメージにも地域差があるね。

たまたま地震直前に炊きあがったご飯があり、フタを開けるとほんのり温かい。
会社で支給された缶詰をいざ!おかずにして朝食。

そしてまた延々と片付けです。次の日に両肩の付け根が痛かったのはこのせいか。
3/11本震よりも、家具や冷蔵庫の移動が激しい。1.5倍位?

リビングはあまりモノがないので大丈夫。
ポットや加湿器が倒れてじゅうたんが濡れてしまったのは前回と同じ。
前回ほぼ動きのなかった液晶テレビの台、カラーボックスは10cm位移動。

台所の被害は、若干食器が壊れた程度。(モノの散乱は除く)
冷蔵庫は中身があまり入ってなかったこともあり、南方向へ20cm位前に飛び出した。
食器棚も東方向へ15cm位移動。私と長男が同時に押しても動かない位重いのに。
二階の様子からすると、東西に激しく、縦揺れも激しくだったのかも。
冷蔵庫はすぽっとはまっていて、東西方向へ動けないからきっと前に動くしかなかったのだとう。

システムキッチンの上の棚は扉が開かずセーフ。
シンク上部の組み立てパイプの棚は斜めに倒れ、鍋・フライパンなどは床に落下。
シンク下の扉が開き、今回はオイルポットが倒れてキッチンマットが油まみれに。(←捨てた)
食器かごはシンクにダイビング。そこへ砂糖ストッカーが落ちて砂糖まみれに。
食器棚の上にあった箱等は当然落下。ホットプレートは落ちなかった。
食器棚の戸はガラスの引き戸なので、食器が飛び出すことはなかった。
だけど中でごちゃごちゃになってはいます。
電子レンジは落ちなかったなあ。

まあ、こんなものだね。二度目だから片付けもスムーズ。とはいってもお昼までかかりましたけど。
食器棚が重くて動かないから、一旦ほとんどの食器を出して、長男と一緒に押して直しました。
冷蔵庫の移動も長男にお任せ。助かる〜。

昼は、先日東京の友人が置いていってくれたガスボンベを使い、カセットコンロで調理。
といっても会社支給のレトルトカレーを温めただけだが(汗)

午後は、まず仏壇のある部屋を片付け。
午前中のうちに、床の間廻りのたくさんの合体マシーン(おもちゃ)を綺麗に子供達が復旧。
大黒さんと恵比寿さんの置物のうち、今回は大黒さんがダイビング。それも元に戻してくれた。
本震で懲りたので、花瓶には何も飾らず、仏壇にお供えする水とお茶も少量にしていたため
水の被害は少なく済んだ。神棚にもご飯しかあげてなくてセーフ。
仏壇の中はごたごたで、今回はお釈迦様の台、お釈迦様、光背がバラバラに。すぐ元に戻したよ。
お菓子を載せる高杯は2つとも皿部分が取れて壊れちゃった。買って一ヶ月しか経ってないのに。
経机の上にあったおりんや線香立など諸々転がって、また灰が畳にこぼれました。
小物達についた水や灰を拭いて、元の位置に戻し、灰を片付けて終了。

ちょこっと休んで、外に出てみる。
うちの廻りをじっくりと眺めて、被害状況を確認。
家から庭へと下りるコンクリにひびわれ。
ガレージから庭へ行く階段と壁の間にひび。
玄関へと続く階段横のブロック塀にも亀裂。道路に面してるので一番危険。
家の基礎コンクリも床下が見える格子窓?付近から若干はがれ落ちている。
玄関に太い柱があるのだが、1cm程ずれてしまい、床との隙間がちょっとできた。
みんな前回はなかった。確実にダメージが広がっている。

でもこれくらいはなんてことないのだ!そのまま家に住めるのだから。
他にいくらでもひどい現実があるので、この程度で被害というのはおこがましい気持ちになる。

近所を歩いてみると、地割れやマンホールの隆起が一層ひどくなっている。
あちこちでブロック塀が倒れている。危険なので取り除く作業をしている人も。
家主が長期不在の家ではサッシの鍵が揺れではずれたのだろう、各窓が少しずつ開いている。
地域全体が、なんだかより一層ひどく、後退した様子だ。

家に戻り、二階の自分達の部屋を少し片付け。出窓から雪崩れた本を片付け、
テレビ位置を直し、壊れたガラス瓶1個を片付け、自分の机の上とその廻りを片付けた。
自分の机の天板はガラスなので、どうしても雪崩が置きやすい。
でも前回だいぶ整理したので、色々と元に戻しやすかった気がする。
前回片付け分でまだ段ボールに入れっぱなしのものもあるけどね。
クローゼット内の片付けはこの次。子供部屋、寝室も手付かず。
子供達は机の上をだいぶ片付けたようだけど、
その廻りがごたごたしすぎてるため片付いたように見えない(苦笑)
ちなみに子供達はいつも割りと綺麗にしているので念のため。

夕暮れで暗くなってきたので片付けストップ。
夕食は疲れて面倒になったので、味噌汁だけ作り、夫に帰りに何か買ってくるよう依頼。
仙台南部は特に問題がなく、スーパーで弁当やパン、飲み物など色々と買い込んで来てくれた。

停電時にすっかりお決まりになった、夕食後のカード遊び。夫と子供達でしているのだ。
明かりはキャンプで使う電池式ランタン。とても役に立ってます。
私は片付けで疲れたのでうとうと。でもみんな21時過ぎには就寝。

3時頃、急に玄関のチャイムがなった。通電した合図!
4時半頃、ウィルコムのバイブ音。メールの自動受信復活!
今回は圏外脱出、早かったな〜。
あらかたメールチェックをして、そういえば二階テレビはついたままでは?と思い、
二階へ行ったら案の定、明かりとテレビがついていた。光フレッツも復活していた。
電気のある生活、ありがとう。そう思いながら消してまた寝た。

もう少し続く。
posted by しゃーしゃん at 17:49| 宮城 | Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

最大余震でも無事です!

3/11本震の片付けも8〜9割方終わり、段々とライフラインも復旧し、
被災生活からいつもの暮らしになりつつあったのに、
4/7深夜にまた震度6強の地震が発生しました。

その日は子供会役員の集まりがあって、
年度末にやるはずだった総会の資料案作成を20時〜23時までやってたんです。

私は帰宅後パジャマに着替えて、ツイッターやメールのチェックをしていて、
夫はパソコンでDVDにファイルコピーをしていたところに地震。

パソコンのフタだけ閉じて、一階で寝てる母のところに行こうとしても、
あまりの揺れに階段を下りることができませんでした。
「お母さん、大丈夫〜〜?!」と大声出すので精一杯。

揺れの時間は短かったけど、本震より強く感じました。その後の更なる余震はあまりないです。

やはりまた停電したので、手探りで階段を下りて、廊下壁埋込式の非常灯を取り、母の元へ。
本震以来、枕元に懐中電灯を置いて寝ていたので、母はパニックにもならず無事でした。
母の足下方向にあった茶箪笥の上から救急箱が落ちたり、アイロン台が倒れた程度で、助かりました。

台所、仏壇のある部屋、二階全部が特にぐちゃぐちゃになりました。
その他の部屋はまあぐちゃぐちゃかな(笑)
本震よりもパワーアップなぐちゃぐちゃぶりでした。
余震を気にして、あえて元に戻さず下におろしたりしていた部分はよかったです。

夜中ですが、とにかく何かあった場合に備えて、歩くルートを作る必要があります。
玄関を確認すると、本震では無事だった大きな絵が落ちて、額縁のガラスが割れていました。
絵を別の部屋に避けて、夫とガラスの片付けをして。

外からホウキを持ってきた時、周りの暗闇を再確認。
本震前には玄関の鍵がちょっと締まりにくくなっていたけど、
本震後は逆に調子よくなったんです。
そして今回の余震では、重みでパタンと締まるはずの扉がパタンとならなくなりました。
手を添えれば問題ないからいいですけど、やはり何かしらの歪みが出てるのだなあ。
襖はよりキツくなりましたしね。

ガラス片付けを終え、ふと二軒先の一人暮らしのおばあちゃんが気になり、様子を見にいきました。
父が民生委員でお世話をしていたのと、班長ということで本震以来声がけをしてましたから。

幸い、玄関の鍵が開いていたので、声をかけ、玄関に置いてある鈴を鳴らしたら、
ろうそくを持ったおばあちゃんが出てきた。(耳が若干遠いので鈴が置いてあります)
タンス等が倒れたらしいが、身体は無事だったので安心しました。
「危ないので良かったらうちで一緒に寝ませんか」とお誘いしたが、
「大丈夫。トイレの中にいるようにしますから」と言われ、無理強いはせず退散した。

家に戻り、二階に戻ってバッテリーで動いていたパソコンの電源を切って、
外付けDVD装置を取り外して、パソコンを机の下に避難させてから一階へ。
水はまだ出ていたので、夫が風呂やバケツに念のため貯水してくれました。

なんだかんだで1時半位になったかな。
二階の自分のベッドで寝るようになったのはわずか2日程前。
また母の隣で寝る生活に戻りました。

長くなるので今日はここまで。

posted by しゃーしゃん at 00:48| 宮城 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月27日

3/11大震災、その時(1)

「長男、中学卒業おめでとう」の続きです。
http://shashan.seesaa.net/article/191799979.html

14時46分。
二階で揺れを感じた私は、直感的に母のいる一階へ駆け下りた。
普通だったら地震程度でそんなことはしない。
でも、なぜか、この時だけは考えるより先に体が動いていた。

リビングの部屋の角に座り、壁に手をつく母に寄り添った。
下から突き上げる強い揺れ、そして強い横揺れ。
すぐそこに大きめの空気清浄機があり、それが倒れて落ちないように支える。

小学5年の時に体験した、宮城県沖地震もすごかったが、
すぐにそれ以上に大きいと体感した。

普通なら30秒も揺れれば収まるのに、2分位は続いた気がする。
長い、長すぎる。家がギシギシと悲鳴をあげている。
縦揺れとか横揺れとかもうどっち方向に揺れてるとかわからない。

なんだか色んな音が聴こえるけど、揺れている音なのか、
何かが落ちたり壊れたりした音なのか、判別できないほど。
地球の悲鳴だったのか。

どうかどうか、家が壊れませんように。
そんなことを思った地震なんて、初めてだ。

揺れている途中で、傍らのファンヒーターの電気が消えた。
地震の途中で停電?! かなり深刻なのだと悟った。

そしてやっと強い揺れが収まった時、すぐに廊下から二階へ声をかけた。
どうやら、夫と長男は無事だったようだ。良かった。
でも、小学校にいる次男が心配だ。

玄関は花瓶が落ちて水浸し。信楽焼のたぬきの置物は木っ端微塵に砕け散っていた。
仏壇の部屋も花瓶が倒れて水浸し。仏壇の中もめちゃくちゃ。
経机の上の香炉等もみな落ちて、灰だらけ。

二階へ声をかけ、パッと部屋を見ただけで、また強い余震が襲ってきた。
怖がる母の背中に手を置いて、揺れが収まるのを待つ。
余震というより、どれもこれも本震といっていい強い揺れ。

終わったと思ったら、30秒もしないうちにまた強く揺れる。
とても片付けなんてできる状況ではない。
母をかばいながら、「きっと大丈夫。助けてください。」と自然に何度も唱えていた。

終わった→片付けようとその場を離れる→しかしすぐ強く揺れる→母と揺れが収まるのを待つ。
この繰り返しをいったい何回続けただろうか。

気づけば15時半になっていた。45分も断続的に余震が続くって?!
本当に一体、どうなっているんだろう。

続く。

posted by しゃーしゃん at 22:10| 宮城 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月18日

家族全員無事です!

私と私の家族はみんな無事です!
家も大丈夫です。なんとか助けあって生きてます。

ご心配くださった皆様、ありがとうございました。
コメントいただいたりもしてるようですが、ネット接続できる環境がないため、確認できてません。

やっと昨日の朝、自分の携帯(といってもWILLCOMのPHS)が自宅で繋がるようになり、
メール送受信ができました。
でもまだ不安定で、即時の送受信ができません。

たまたま会社携帯(ドコモ)を臨時で借りていたため、
会社や妹などの主要なところへは安否メールを早期に出せました。

いろいろ伝えたいことはありますが、また後日記事にします。
父の記事も途中なのに...語りたいことありすぎです。

生きてることに毎日感謝。

希望を失わず、前を向いて助け合い、支えあいながら暮らしています。

そして、ありがとう。愛しています。ごめんなさい。許してくださいと唱えています。

この危機をきっと乗り越えることができるように毎日祈っています。
特に原発のことが心配です。

津波の被害が酷い地域に親戚が多く心配ですが、連絡が取れません。
でも必ず会えると信じて、それまで体調を崩さないようにこちらも生きていこうと思います。

ではまた連絡しますね!
みんな愛しています!ありがとう!
posted by しゃーしゃん at 08:05| 宮城 ☁| Comment(7) | TrackBack(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする